報告:植村朔也(2021年度採択)

『リレーショナル・シアター その後:「観る演出」の問題系』

 ハラスメントや人権侵害、演者の自発性や創造性の抑圧に目をつぶってでも、戯曲家ないしは演出家が強大な権力を有する従来のヒエラルキー的創作を維持するか、それとも作品の質なるものを犠牲にしてでも水平的創作に向かうのか――。


 この文章はまず、そのような不毛で有害な二項対立に終止符を打つために書かれる。しかし一方で、水平的クリエーションにおいてなお良い作品は作りうる、などといった、論ずるまでもない事実をわざわざここで主張する気もない。そうした主張は、結局のところ、作品の倫理的な良さと芸術的な良さを峻別する思考を初めから前提してしまう。そうした言説は、作品の倫理性を問題外とする人びとに対して、なんらの説得力をもたない。


●SEAのポテンシャル

 『悲劇喜劇』2021年3月号に寄稿した「リレーショナル・シアター」で、いわゆるリレーショナル・アート(以下、RA)やソーシャリー・エンゲージド・アート(以下、SEA)をめぐるいくつかの文献を参考にしながら、わたしは「平等性も敵対性も作家性の強弱も、美的に言えばそれ自体としては価値的でないと考えるのがむしろ当然」であると認めた上で(演劇について「美的」という言葉を用いるのが不自然だとすれば、「芸術的」という言葉に読み替えられても一向にかまわない)、「重要なのは、いかに人びとの間に多価的な、すなわち反応性に富む諸関係を構築できるかどうかである」と主張した。詳しくは同稿を参照していただければと思うが、簡単に振り返っておこう。

 SEAが単に社会の変革を志向するとき、もはや芸術である意味を喪う恐れがあるばかりでなく、作家の意見の一方通行的なおしつけになってしまいかねない。そうした啓蒙的な態度からは、新しいアイデアや社会的な関係性が生まれてくることは結局のところ期待しづらい。SEAが芸術実践であることのポテンシャルのひとつは、社会的諸関係や諸問題をいちど芸術という領域にスライドさせ、ゆがめたり変形したりすることにある。そこでは、作家さえ予期しなかった新しい社会的性格が姿を垣間見せる可能性がある。だからこそ、たとえ仮構されたものにすぎないとしても、SEAにはあくまで芸術としての評価が問われる必要がある。その時しばしばその評価基準となってきたのが、ごく粗雑で恣意的なまとめではあるが、の「いかに人びとの間に多価的な、すなわち反応性に富む諸関係を構築できるかどうか」という点である。


●参加という罠

 ところで、こうしたRAやSEAについて、国内では耳あたりの良い名前ばかりが広まり、イメージが形成されてきた一方で、それらについて重ねられてきた議論は周知されていないのが実情ではないかと思われる。ニコラ・ブリオー『関係性の美学』が未邦訳であることをはじめとして、SEAが十分に紹介されることのなきままに、SEAは芸術としては問題外だというような気分が現代美術業界のなかでも強まってしまったことも無関係ではない(藤田直哉氏の『地域アート』に詳しい)。近年「参加」や「ケア」といったキーワードをもとに、観客も含む上演参加者の関係性を主題化するパフォーマンスが目立つが、そこでは安易に平等や連帯が目的化されることがしばしばである。それは自己責任の価値観を押し付けて人びとを分断させていくネオリベラリズムの政治に対する応答ではあるのだろう。しかしパフォーマンスの上演とはすでにしてある種の「参加」を前提していることは言うまでもない。さらに、たとえばクレア・ビショップはその有名な「敵対と関係性の美学」で、作品が真に民主的であるためには平等性よりもむしろ敵対性を基礎におくべきことを説いており(もちろんその敵対性をただちに分断と同一視することはできない)、それはSEAをめぐる議論ではほとんど当然の前提と見なされる文献でもあるのだが、そうした問題意識は先述のパフォーマンス群にはそもそも見られない。平等性や連帯といっても、観客がそのパフォーマンスを観に劇場に足を運んだ時点でそこにはすでに一定の共同性が構築される用意がある。そのなかで、単に劇場に完結する束の間の共同性や連帯を創出し安らうばかりでは、かえってネオリベラリズムの生む分断を補強することにもなりかねない。あらかじめ規定された枠のなかで、現状維持のための相互扶助という、実質的には自助にすぎない行いに安らっているだけだとも考えられるからである。近年は複数の作家同士でひとつの集団を形成するコレクティヴの試みが盛んであるが、これらについても同種の危険は潜在している(註1)。優れたSEAは「人びとの間に多価的な、すなわち反応性に富む諸関係を構築」しおおせた場合に、それを社会経済的な領域に逆照射する。そして、時には作品を枠づける先行条件にたいしても介入を図り、社会を変えていくのだ。社会的連帯を問題としてパフォーマンスを制作するとき、作品をどのような社会的・経済的場が可能に、あるいは困難にしており、作品はそうした場へいかに働きかけることが出来るのか。芸術という特異な領域が面目躍如の働きをなしうるのはそうした場合においてのことである。真に分断と連帯を問題にするなら、上演の時空間を枠づけ、他の時空間から仕切る、その分節行為にこそ焦点が当てられなければならない。

(註1:ただし、定められた時間内で完結するパフォーマンスとは異なり、コレクティヴの活動は長期にわたり、作家たちのコラボレーションやアイデアを創発する可能性を可視的な水準においても不可視的な水準においても秘めている。と同時に、そうした可能性はあくまでも持続的な共同性の副産物として生まれてくるものであり、それを特定の目的意識によってあらかじめ囲い込むことはナンセンスである。一方でコレクティヴ活動の隆盛の背景には作家たちの置かれた社会的・経済的な立場の不安定さがある。コレクティヴ活動がそうした不安定さをしのぐための現状肯定的なポリティクスに終始する場合については疑問なしとしない。)


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二重変換の芸術


 長いまわり道をしてしまったが、わたしの「リレーショナル・シアター」での議論はいささか屈折しており、前段落で論じたような、「社会参加型の演劇」とでも呼べるような類いのパフォーマンスへの批判を主眼としたものではない。題材にしたのはむしろ、わたしが保存記録を務めるスペースノットブランクという団体の「社会参加」という言葉からはただちに結びつかないような種類のパフォーマンスだった。

 「リレーショナル・シアター」でわたしはSEAを<社会→SEA→社会>という二重変換の芸術と見なした。SEAの議論の奇妙さというか回りくどさは、最終的に社会的文脈に作品を照射し返すことを前提しながら、一方で作品の価値をあくまでも社会よりも芸術の側から論じようとするその姿勢にある。ならば同じような逆説を舞台創作一般に適用することはできないのかと考えたのである。つまり劇場で上演される舞台をひとつの「社会」とみなしたうえで、それに向かうクリエーションのプロセスそれ自体を芸術と見なし、「いかに人びとの間に多価的な、すなわち反応性に富む諸関係を構築できるかどうか」を、作品を評する際のひとつの評価基準とみなすことを提案したのである。

 そうした屈折した読解の理由のひとつには、作家の頭にあるとされる作品の内容と、作品の制作プロセスとを分離する思考から大きく距離をとった制作モデルを提案する企図があった。「リレーショナル・シアター」という言葉は、もちろん平田オリザの「関係性の演劇」概念を意識したものだが、まったくの別物である。『現代口語演劇のために』で平田は「私は人間性の回復のために演劇をやっているわけではない」と断固とした口調で語り、そして、次のように書いている。「私は私の世界を構築し、それを役者に受け入れてもらう以外にない。〔…〕そのような強い意志なくしては、現代において舞台も劇団も不可能だと私は思う」。制作を通じてけっして揺らぐことのない自律的な「私の世界」があらかじめ前提される。一方SEAは人間関係を中心的に扱う芸術である以上、作家の存在もそこから独立ではない。同様に、「リレーショナル・シアター」においては戯曲家ないし演出家は制作プロセスのなかで自身の考えや立ち位置をも他のクリエーション・メンバーとのかかわりを通じて組み替えていかざるを得ない。そもそも「私の世界」とはそのような不断の「再制作」にひらかれてあるはずである。


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「思考する演出」と「観る演出」


 しかし、執筆から一年が経過した現在、以上のような「リレーショナル・シアター」の枠組みの限界を認めざるを得ない。第一に、当然のことながら、制作プロセスを芸術と見なす場合にいかにそれを批評しうるのかという問題が存在する。ある制作プロセスを如何なるときに肯定し、あるいは批判するのか、そしてその評価はどのような視座からなされるのか(註2)。さらに「リレーショナル・シアター」モデルは、「社会」という言葉をほとんどメタフォリカルな次元でしか使用しないために、RAやSEAが持つ政治的・経済的状況への介入のポテンシャルをあらかじめ切り捨ててしまう。たとえそれが作品の制作過程についての批判を政治的・倫理的視点に還元しきらないためのひとつの方途であったとしても、である。そして最後に、こうした「リレーショナル・シアター」の枠組みではスペースノットブランクの作品の内実をとらえきることができなかった。

(註2:これは困難な問題ではあるが、かといって答えることが不可能なわけでもない。作品に対する自らの立ち位置は問題にしなければならないが、稽古場に顔をのぞかせることのできる人間はこれを批評する可能性を手にするし、あるいはそうした内部の人間の証言から批評を組み立てることもできるはずである。本稿の以下でのピナ・バウシュ《ツー・シガレッツ・イン・ザ・ダーク》および、わたしたちの《りようする》についての記述はその具体的な実例となるだろう。またそもそもパフォーマンスを批評する場合には、鑑賞者から独立な「作品」概念を安易に前提できない場合も数多く存在する。そうした場合こうした問いはむしろ避けては通れないものとなる。)

 しかし一方で、制作プロセスと、劇場での本番との間に上演行為を二重化する「リレーショナル・シアター」の屈折した議論の筋道にはまだ可能性がある。稽古場で演出者が出演者のふるまいを観る、その「稽古場での上演」の過程に力点を置いて作品を捉えることで、ヒエラルキー的創作と水平的創作という二項対立の脱構築を試みることができる。この二項対立は水平的創作に介在するはずの権力と責任の契機をともすると見えづらくしてしまう欺瞞、あるいは不便さを有している。代わりに私が呈示するのは、「思考する演出」「観る演出」という別の二項図式(対立ではなく)である。


●ピナ・バウシュの「観る演出」

 話をわかりやすくするために、具体例を示したい。ここではスペースノットブランクが影響を受けたと自ら語っている、ピナ・バウシュの創作方法を取り上げる。

 振付家であるバウシュは、自らの思い描くイメージをダンサーに演じさせるのではなく、むしろ徹底して観ることに努めた。その稽古場の印象についてライムント・ホーゲは次のように語っている。「ピナ・バウシュは一心不乱に、きわめて冷静に団員の模索を追っている。「全員が自分のやりたいように、あるいは考えたとおりにやってほしい」と何かの拍子に言ったことがある。この姿勢はリハーサルに限った話ではなく、次のように言い換えられる。「わたしのすることは見ること。たぶんそれに尽きるのよ。わたしはいつも出演者を見つめてきただけ。これまでしてきたことといえば、人間関係を見ることだけ。あるいは、見て、それについて語ろうとしてきたことだけ。わたしの関心はそれだけ。それより重要なことがあるなんて思えないわ」」(『ピナ・バウシュ:タンツテアターとともに』)。

 こうした創作方法にはある種の合理性がある。「人間関係を見ることだけ」に努めることで、自身の想像力の半径を超え出た発想や挙動が演者たちからオートマティックにもたらされることになるからだ。演出者は出演者のもたらす意外な挙動に驚きながら、まだ見ぬ新しい表現を追い求めることができる。


●ピナ・バウシュの権力性

 ここで、自分の頭のなかに思い描かれた「私の世界」を、他者の身体を通じて表現する「思考する演出」に対して、この「観る演出」がそれ自体としてはいかなる点に於いても優位あるいは劣位に置かれていないことが重要である。それは方法の違いにすぎない。ともするとバウシュの振付は出演者の自発性にまかせて表現を行う点で、より水平的で民主的なものに思われるかもしれない。しかし「観る演出」ということに力点を置く時、出演者の呈示する選択肢から上演内容を選び取り編集していくバウシュの権力性が焦点化される。その判断基準は個々の演出家特有の審美眼によるものにならざるをえないが、クリエーションの水平性ばかりを強調するとき、この「眼」のはたらきはしばしば隠蔽される。

 さらに、この「観る演出」がむしろ出演者にとって悪い方向に働く場合も想定できる。たとえば「観る演出」は出演者が演技を鍛えることを阻害しうる。先のライムント・ホーゲによれば、ピナは《ツー・シガレッツ・イン・ザ・ダーク》制作の際、お題を出して演者にいくつかの身振りや演技をさせ、それを眺めることを6週間にわたって続けたのち、その中から選りすぐったものをもう一度演じるように頼み、上演内容を構想し始めた。ここで、ただピナが演者の提案するパフォーマンスを眺めた、6週間という準備期間の長さが決定的に重要である。というのも、それだけ間をおいて演技が選別される時、出演者は自らの演技のよしあしを検討することができないからである。バウシュは良いとも悪いとも口にせず、ただ出演者の演技を眺める。しかしそうした価値判断の留保は、結果的に、特定の方向に向けて演技を鍛えることがなく、反省的に表現を考案することのできない、ただ「やりたいことをやる」だけの無私の出演者たちを作りだしてしまうだろう。

 このように、制作の水平性よりも「観る演出」としての側面に光を当てることで、バウシュの稽古場に見られる「上演構造」を分析し、批評することが可能になる。ただし、もちろん水平的な制作を志向することが、ただちに「観る演出」を意味するわけでもない。上演内容を決定する審級をそもそも演出者という個人に限定しない制作もまた可能であるに違いない3。そもそもあらかじめ示唆しておいたように、「思考する演出」と「観る演出」とはあくまで理念的な区別にすぎず、ほとんどの演出の現場では当然両者は混ざり合って存在する。しかし水平性や共同性を志向する実験的な取り組みの内実は、むしろこの「観る演出」としての側面に注目することでより具体的な仕方で分析できるだろう。そこで問われるのは演出者のパフォーマンスである。


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ある上演、有栖川宮記念公園広場


 最後に、ここまで論じてきたような「観る演出」のさらなる事例報告を以て本稿を閉じたい。個人的に開催している小規模な勉強会でわたしは上記の内容を共有し、その上で、その具体的な実践を試みた。この勉強会は石田裕己氏、井出明日佳氏、中本憲利氏とそれからわたしの四名からなっている。このうち中本氏を演出者とし、わたしと井出氏を出演者とし、石田氏を批評家兼観客として、「観る演出」を中心に即席でパフォーマンスをつくってみることにしたのである。

 ところでこの勉強会は、わたし以外の全員が近現代演劇の門外漢であることを特色としている。むしろ三名の関心は能楽や現代美術にそれぞれ向けられている。すなわち、メンバーのほとんどは演劇の創作経験がなかったのである。


●プロセス

 制作プロセスは次のような順序を辿った。まず、パフォーマンスを制作すること自体が2022年3月11日に決定し、本番は同月23日18時に行うことになった。この時点で具体的な場所は未定である。

 その後中本氏が3月13日に、なんらかのキーワードを考案しておくようわたしと井出氏に連絡した。

 3月17日には、そうして集められた三つのキーワードを題材として2時間で文章を執筆することがわたしと井出氏に求められた。書き上げたのち、それぞれの文章は機械音声の読み上げ機能を通じて三者に共有された。それを受けてZoom越しに3人で30分程度の会話をした。ここでの会話は録音され、自動文字起こしサービスを通じて文章化された。

 3月22日には、この会話を文字起こししたものにさらに編集が加えられたテキストが上演台本として中本氏から共有された。

 上演テキスト以外の制作は本番の3月23日に集中した。朝9時に中本氏の指定で六本木に集合し、少し散歩して、有栖川宮記念公園広場を上演箇所として採用することが決定され、観客の石田氏にそのように連絡する(なお、当日はわたしの知人をほか2名招待した)。知人にのみ公開するパフォーマンスゆえこそのかなりアバウトな進行だが、そこから上演内容の考案が始まる。だるまさんが転んだをする、手押し相撲をしながら台詞を読むなどしているうちに、演者の身体にカンペとして上演テキストを張り付けてしまうことをわたしが提案した。というのも、前日夜に共有されたテキストは2,200字だったが、ほぼ演技未経験者のわたしたちに覚えられる分量ではなかったからだ。そこからは、いかに観客からは見えない位置にカンペを貼るかが考案され、また、そのカンペ位置が二人の身体の位置関係や身振りをも規定することになった。たとえばコートの内側にカンペを貼る場合は観客に背を向けた上でコートを開き、相手の演者はそのカンペが読めるような位置に立つ、といった風にである。観客の位置は固定なので、それに即して、観客の目を逃れるようにカンペの位置が模索され、そしてカンペが出演者の身振りを振り付ける。このようなルールに即して演技の身振りは決定されていった。これは一般的な基準に照らすとずさんなクリエーションでもあるかもしれないが、カンペを棒読みしながらカンペに振り付けられる身体は独特の質感を備えていた。作品の題は≪りようする≫というものだった。なお、制作過程において出演者の執筆した文章は当日観客に配布されたリーフレットに印刷されたQRコードから参照することができた。


●多重変換

 上演テキストを制作する段階での中本氏の「観る演出」が踏んだ順序は手が込んでいた。まず、出演者と演出者の三名でお題を考え、その上で文章を執筆させる。バウシュはお題を一方的に与えるのに対し、お題自体を出演者から募るのだ。そのうえで、執筆されたテキストをただちに上演テキストとすることはなく、さらにそれを出演者が互いに受け取り会話の話題を選ぶ段階を設けている。しかもその際テキストを文字情報として共有せず、音声合成ソフトの発話を噛ませることで、出演者間でテキストの内容について誤解や理解不足が自然に生まれるようになっていた。さらに、そこで出演者らによってなされた会話が、「自動文字起こしサービス」によって誤字脱字を含むさらなる「翻訳」を蒙る。ここでは演出者のみならず、出演者やコンピューターといったさまざまな存在が上演内容を「セレクト」するように仕組まれており、その点に於いて観ることの権力は複数のアクターに委譲されているのだ。しかも、その上で最終的な上演テキストは中本氏自身が編集しているため、最終的に上演内容を決定することの責任と権力性から演出者が目を背けているわけでもない。

 しかし上演テキストが確定してから本番に至るまでの数時間は、あまりに短すぎた。結果的にここで起きたのは、演出家が観ることでの上演内容の取捨選択というよりもむしろ、いかにして本番までに内容を間に合わせるかという、問題のシフトであり、カンペの位置を振り付け、逆にそれに振り付けられることでほぼオートマティックに身振りを生み出すという、わたしが考案した、ほとんど自走する別の創作システムへの移行だった。端的に言えば、上演内容を選んでいる時間がなかった。そして、どのような身振りを選択するかは「これはダサいのではないか」「これはちょっとイケてるのではないか」「これはウケるのではないか」という場の空気感によって決定されていった。そして結果として具体的な演出のプロセスは、先にも少し触れた、演出者不在の水平的クリエーションに近似していったのである。


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上演時間の問題


 これはわたしたちの経験不足にも由来しているかもしれないが、どちらかといえば、時間をめぐる問題だった。たとえば稽古時間がこの数倍取れる場合に、上演内容の決定審級を今回のような抽象的な「場の空気感」に委ねることができないのは明らかだった。稽古時間の長さに比例して、演出者が選択する選択肢の数は増大する。逆に言えば、「観る演出」の場合、稽古時間が短ければ短いほど、演出者に求められる責務は稽古の場づくりのほうに集中し、上演内容を決定する選択者としての権力性は問われなくなる。ごく単純な事実として、時間制限が演出者の帯びる権力性の種類と程度を規定することに、今回の試行を通じて気づかされた。

 ここで、バウシュが準備期間の前半たっぷり6週間を観ることにのみ費やしたことを想起されたい。やはり時間が問題である。これは「稽古場での上演」における上演時間の問題である。そして通常のパフォーマンスと異なり、「稽古場での上演」の「上演時間」は数時間から数カ月間まで伸縮自在である。したがって、他のパフォーマンスに比べても、どのような長さの「上演時間」が想定され、そしてその「上演時間」がどのように取り扱われるのかが、この「稽古場での上演」を批評する場合にとりわけ重要であると言えよう。

(植村朔也)

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