2019年度採択プログラム

2019年度のスカラシップ採択者、研究テーマ、内容を発表いたします。

2019年度採択者:渋革まろん
研究テーマ:「列島演劇」を批評するための記述と考察
研究費使途:旅費、観劇費、文房具費ほか

【渋革まろんを採択した理由】
・「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」において、1990年代から2010年代の現代日本の芸術表現を通じて、日本社会のイデオロギーを分析・批判する優れた視点を評して。

「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学―私たちはいかにしてよく群れることができるか」https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2856/

【採択プログラムについて】
 「列島演劇」とは私の造語である。「日本演劇」を批評の対象にしようとすると、東京を中心とした小劇場演劇の文化環境、消費環境を整備した劇場で興行される上演群、日本のナショナルな舞台芸術の一ジャンル、そういったものとして演劇の全体性がイメージされる。そうすると、東京―地方、プロフェッショナル―アマチュア、芸術―生活、現代演劇―伝統芸能といった文化的・経済的・歴史的ヒエラルキーが温存され、ときに批評の対象から一方が排除される結果になる。

 そうした批評の言葉の不自由を解除し再編成するために、わたしの提案する仮説概念が「列島演劇」である。海洋プレートの沈み込みにともなう火山活動の結果、列島は形成される。地質学に属する概念であるが、わたしは日本演劇を異なるパースペクティブから捉え直し、その全体性のイメージを変化させるために使う。いわば、「日本列島」から「日本」と「列島」を切り離すために使う。

 わたしは「列島」という概念の利点は、その両義性にあると考えている。一方で、「列島」は海を防護壁とした日本列島の島国イメージと結びつき、日本人の表象秩序を形成する領土的な概念として読まれるが、他方で、「列島」は海に開かれた交通イメージと結びつき、雑多な文化の交わりを表象する雑種的な概念として読まれうる。

 「列島」では、海を境にした閉じることと開かれることが分けられない。地理的な側面から言うなら、その境域は島々の連なりとして広がっていくが、島々に住む人々を土着の日本人として想像させるイメージの内側に閉じる。海の向こうから見知らぬ他者のやってくる可能性がいつでもあるが、海に守られているために、共通のしきたりを内面化したムラの道徳を維持しやすい。日本と島々の緊張関係を「列島」はイメージさせる。

 では、「列島演劇」の仮説から捉えられる「日本演劇」はいかなる相貌を示すだろうか。現段階で結論を示すことは出来ないが、第一に、多様な文化共同体が異種交配を起こす複層的集合として定義できるのではないかと考えている。わたしは、日本社会という集まりを再生産される領土としてだけではなく、交わりの痕跡として理解したい。そうした交わりが起こる日本の境域を列島性を体現する「列島演劇」と呼びたい。それを記述して批評することが、「列島演劇」のもとに行われる活動である。

 そのために、列島各地に足を運ぶ。そこで見聞きしたものを、「列島演劇」という仮説のもとに記述することがわたしの最初の目標である。そのとき、交わりが起こる境域に注目していきたいと思っている。沖縄や北海道のように、植民地支配の歴史を背景にした交わりの境域(列島性)を体現する「列島演劇」があるかもしれないし、長崎のように、キリスト教との交わりが生じさせた「列島演劇」があり、その「列島演劇」の現れの一つが松田正隆の戯曲として結実しているのかもしれない。あるいは、2011年の震災と原発事故以後に生じた「列島演劇」があるかもしれない。

 この活動を「列島演劇見聞録」と呼びたい。見聞に当たっては、さしあたり、その土地において現在形で生じている交わり(現在の活動)の横軸と、その土地の土着文化(民俗芸能等)とのあいだで生じている交わりの縦軸を設定することを想定している。そうすることで、「日本演劇」を規定する諸カテゴリーから距離を取ることが出来ると思う。


 おそらく、この構想はあまりに遠大で、実現できるのはほんの一部かもしれない。しかし、本スカラシップの支援を受けて、その試みに着手したいと考えている。

【渋革まろん プロフィール】
北海道生まれ。批評家。LOCUST編集部。 劇評マガジンnoteachメンバー。
座・高円寺劇場創造アカデミー舞台演出コース修了。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」にてゲンロン×佐々木敦 批評再生塾3期総代(最優秀賞)。

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